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京都歴史回廊協議会

イベント紹介

第11回歴史回廊らくたび散歩「平安時代の入口を守る巨大寺院の栄枯盛衰 九条通りを歩く」を開催しました

 10月17日(日)13時から、第11回歴史回廊らくたび散歩「平安時代の
入口を守る巨大寺院の栄枯盛衰 九条通りを歩く」を開催した(参加者
32名)。今回は、平安京の条坊制を形づくる大路小路の中の、元一条
大路から九条大路までを順番に巡る企画の最終回。元九条大路(現九
条通り。以下、九条通り)を東から西へと歴史散策を行った。

 京阪電鉄東福寺駅に集合した一行は、株式会社らくたび代表取締役
の山村純也氏の案内により、万寿寺の山門前に向かった。同寺は元々
万寿寺高倉あたりにあり(現在の万寿寺通の語源)、室町時代には京
都五山の第五位に数えられた歴史ある寺院であったが、火災により焼
失して以降は、現在地に移転し、現在は東福寺の塔頭の一つとなって
いる。重要文化財に指定されている鐘楼の説明を受けた後、九条通り
を南へ渡り東福寺へ移動した。
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 東福寺では、紅葉の時期には撮影が禁止されている臥雲橋から通天
橋に向かってうっすらと色づき始めた紅葉を堪能した。日下門から境内
に入り、圧倒されるような存在感のある国宝三門等を拝観した後、伏見
街道へ出て、九条通りに戻り、西進。城興寺へと向かった。
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 城興寺は現在では住宅地の中にあって目立たないが、九条通りとい
う名の通り、昔この付近には摂関家である九条家の邸宅があり、そこ
につくられた九条堂というお堂を起源とする寺院とのことであった。
また、平家全盛の時代、以仁王がこの寺を寺領として有していたが、
鹿ケ谷の陰謀発覚以来、実父である後白河上皇と平清盛との対立が
鮮明になる中、1179年に同上皇の実子という理由から平清盛によって
取り上げられた。その後、安徳天皇が即位し、自らが傍流であることを
確信したことも相俟って以仁王は平家討伐の挙兵を決断したとも言わ
れている。
 城興寺を後にした一行は、東寺のアララギを目標に一路西へ。東寺
(正式名:教王護国寺)は平安遷都とともに建立された二つの官寺(東
寺と西寺)のうちの一つ。嵯峨天皇から運営を託された弘法大師空海
(以下、空海)が造営を進め、日本初の密教寺院を創り上げた。南大門
から境内に入った一行は、国宝金堂や立体曼荼羅が納められている
重要文化財である講堂の説明を受け、国宝御影堂の秘仏不動明王に
手を合わせつつ、西側通りに出て、南下し国宝蓮華門へ。蓮華門は空
海が東寺を後にし、高野山へと向かう折に使用した門。蓮華門に向か
う空海が歩いた後に次々と蓮華の花が咲いたことが門の名前の由来と
なっており、空海の旅立ちの際には門のところまで不動明王も見送りに
来られたとも伝えられている。
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 東寺を出て西へ進むと、朱雀大路の南端、平安京の南の玄関口であ
った羅城門跡地に出た。羅城門は建立以降度重なる被災により再建が
繰り返されたが、980年の暴風雨により倒壊されたのを最後に放置され
たという。跡地には石碑が残るのみで当時の面影は何もないが、平安
京の基点の一つとして、東に東寺、西に西寺が配され、北に朱雀大路
が伸び、内裏へと続いていたことに思いを馳せる不思議な空気が漂って
いた。
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 東寺と違い西寺は、現存しておらず、跡地は児童公園になっていた。
公園の中央の小高い丘には巨大な礎石がいくつも遺っており、その大
きさから巨大な建造物があったことが想像された。
最後に鎌達稲荷神社を訪ね、JR西大路駅で解散となった。まさに「平
安時代の入口を守る巨大寺院の栄枯盛衰 九条通りを歩く」を体感する
散策となった。
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2021/11/05 17:54

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